GomameのTubuyaki Vol.128

Gomameのつぶやき
  1. ホーム
  2. Gomameのつぶやき
  3. GomameのTubuyaki Vol.128

-光と闇- 画家 高島野十郎の生涯

-光と闇- 画家 高島野十郎の生涯1

 

 高島野十郎という洋画家が世に知られたのは、昭和61年、没後10年経った頃のこと。
 現在でも絵画に関心がある人の間では有名でも、一般的にはマイナーな存在かもしれません。
 高島野十郎(1890年~1975年)は明治23年、福岡県久留米市の裕福な造り酒屋に八人兄弟の五男として生まれました。
 本名は弥寿(やじゅ)。
 秀才で、東京帝国大学農科を首席で卒業しています。
 子供のころから絵を描くのが好きで、美術学校進学を希望しましたが、父の反対で叶えられませんでした。
 両親の死後大学を辞職し、画家として生きる道を選びます。
 独学で師を持たず、画壇とも関わらず、あまつさえ家庭を持たず、名利を求めない、画業のみを追究する一生を貫きました。

「怖い絵」 絵が突きつけるもの

-光と闇- 画家 高島野十郎の生涯2

 上は33歳ころの「りんごを手にした自画像」。
 暗い背景に浮かぶ法衣の男が持つ青いりんごは、何の比喩でしょうか。
 そして見る者を凝視する眼光の鋭さと、澄んだ目から放たれる気迫。
 普通の意味での美しさや快さはありませんが、絵と対峙する者を捉える、強いインパクトがありますね。
 野十郎の絵を直接見たこともなく、絵画の鑑賞方法も知らない素人の感想ですが、彼の絵の特徴として、写真かと思うほどの写実と、葉の一枚まで緻密に描きながら、そこに抒情はありません。
 深い精神性を感じさせるのではないでしょうか。

-光と闇- 画家 高島野十郎の生涯3

孤独の覚悟

 第一次大戦後の三年半、ヨーロッパへ洋行。
 帰国後は故郷と東京に住み、70歳を過ぎて千葉県柏市に小屋を建て、電気無し湧水を使う質素な暮らしの中で畑を耕し、制作に専念しました。
 世間的な成功は元から眼中になく、描き続けることだけを望む生活。
 特別養護老人ホームに収容される時、柱にしがみついて抵抗し、誰にも看取られず野垂れ死にしたかったと述懐したという最期からは、相当の覚悟があったと思われます。
 ただ、極貧の生活ではなく、絵を認める支援者がおり、筋が通った性格でも、偏屈、狷介ではなかったようです。

闇を描くために月を描いた

-光と闇- 画家 高島野十郎の生涯4

 柏市の自然の中から、月や太陽、蝋燭の連作が生まれました。
 光と闇は野十郎が到達した仏教的な無常観の表現だったのかもしれません。
 昭和55年、地元美術館に展示された一枚の絵が反響を呼び、若き学芸員によって残された三百余の作品が発掘されました。
 ほとんどが親族や友人知己の許にあり、個展の出品の依頼には多くの所有者が「野十郎さんのためになるのなら」と快諾したそうです。
 昨年は、没後40年の特別展が関東・九州で開催されました。
 できるならば、いつか実物を鑑賞したいものと思います。

この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2017年1月号No.128 に収録した内容です。

o-goshi

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です