GomameのTubuyaki Vol.144

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鍛冶屋(かじや)長九郎の話し―もうひとつの天皇家―

 

 5月に平成から令和へ元号が改まり、天皇の退位・即位にともなう様々な儀式などで、皇室に関心が集まっています。
 日本の皇室は世界の王室の中で最古と言われます。
 日本書紀や古事記に記されている初代の神武天皇の即位を、皇紀1年とすると、今年は2679年。
 初代以来、一度も王朝の交代が無く、神話上では皇室の祖神アマテラスオオミカミの血を受け継ぐ一族が、連綿と天皇位を守り伝えているとされています。

お世継ぎの問題

 現皇室も、皇位を継ぐ男性皇族が次代は一人だけで、皇室の安定的な存続が懸念されていますが、実は幕末の孝明天皇から大正天皇まで3代にわたり、直系の男子はそれぞれ一人だけでした。
 どうやら細い一本の糸は、絹ではなく鋼鉄でできていたようですね。
 もう一つの天皇家といわれる伏見宮家は、約600年前に創始されました。
 1428年、当時の天皇家の後継者が次々と早死にしたため、8親等も離れた傍流でありながら、幸運にも皇位を継承する者が出ました。
 以降、天皇家のスペアたるべき世襲親王家として細々と存続し、明治維新を迎えました。
 皇室の強化を図る明治政府の方針のもと、子だくさんだった伏見宮家の男子は多くが新しい宮家を興すことになりました。
 終戦まで存在した11の宮家はすべて伏見宮家の出身という隆盛を誇りましたが、その伏見宮家にも、かつて断絶の危機があったのです。

鍛冶屋になった高貴な若者

 西暦1654年、伏見宮家は当主とその息子二人があいついで亡くなり、宮家断絶かと思われた時、徳川幕府の出先機関である京都所司代に、遠縁の娘が生んだ宮家のご落胤を長年かくまってきたと訴え出る者が現れました。
 吟味の結果認められ、その男子は晴れて伏見宮貞致親王と名乗り、宮家を継ぎました。
 以上は当事者安藤某の息子が書き残した内容です。
 一方、同時代の他の人の記録には、そのご落胤は宮家の内紛を避けて丹波の人の養子になった後、11歳の時西陣の鍛冶屋の弟子になり、長九郎と名乗っていたとあるそうです。
 どちらが真実なのか判然としませんが、宮家では当時、命をねらわれるほどの争いがあり、身を隠さなければならなかった者がいたのでしょう。
 皇族に生れて鍛冶屋の徒弟へ、運良く宮家へ帰り当主へ。
 貞致親王の一生は数奇なものでした。

その後の貞致親王

 伏見宮家へ引き取られた親王は、関白近衛家の娘を娶り、内裏へも出仕しましたが、次第に公家社会から孤立していったそうです。
 復帰後の環境があまりにも違い、なじめなかったのか、はたまた出生の疑惑が完全に晴れなかったのか。
 旧皇族11宮家の直系の先祖に当たりますが、一族の中には存在をタブー視する方もいたと言われます。

この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2019年5・6・7月号No.144 に収録した内容です。

o-goshi

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