明治毒婦伝 夜(よ)嵐(あらし)お絹の生涯
爽やかな若葉の季節、爽やかさとはほど遠い女性殺人犯を話題にするには少々気が引けますが、約150年前、激動の幕末・維新を経て文明開化が始まるころ、波乱万丈の短い生涯を生き、当時の人々に強い印象を残して、後世にまで伝えられた毒婦・夜嵐お絹こと原田絹なる美貌の女性がいました。
「毒婦」の定義
意味の近い「悪女」を検索すると、「悪女」とは心の悪い女、性質の良くない女。
次に、男を魅了し堕落させるような小悪魔的な女性、男を手玉に取る女。さらには容貌の醜い女をも指すそうで、どれも男性目線。
特に最後は酷い言いようです!
明治から昭和初年にかけて毒婦とされた女たちは、一様に薄幸の生い立ち、芸妓や遊女として華やかな人気を得た後、罪人となり悲惨な最期を迎えるパターンが多いのですが、毒婦としての第一条件は、美しくなければならなかったのです。
夜嵐お絹の罪と罰
お絹の一生には諸説あり、事実として確認できる事柄は、芸者から裕福な金貸し業者の妾となったが、美男歌舞伎役者の愛人と所帯を持ちたいがため、夫を殺鼠剤(ヒ素)で毒殺した嫌疑を掛けられ、明治5年(1872年)2月、東京府小塚原刑場で斬罪後、浅草にて3日間の晒し首の刑に処されたこと。
逮捕された時身重だったので、出産を待って処刑が行われたことくらいのようです。
生地や生年も定かでなく、江戸生まれ、享年28とされています。
罪科は不義密通と夫の殺人です。
大衆はいつの世もゴシップが好き?
低俗な庶民の好む与太話には一切関心が無いという方もおりますが、テレビや週刊誌は競って有名人の動向を報道していますね。
物見高いは人の常、遥か昔の明治5年に、お絹の処刑を翌日創刊の「東京日日新聞」が煽情的に報じています。
死後、講談や錦絵の題材になり、何度も映画化されて事実に枝葉が付き、原田絹は夜嵐お絹という毒婦になりました。
夜嵐のあだ名は辞世の句「夜嵐のさめて跡なし花の夢」から採られましたが、これもフィクションだそうです。
少女時代は寄席の手品師説、美貌を見込まれて某大名の側室になり世継ぎを生んだが、大名の死後芸妓に戻った説などがあります。
虚実混交、伝説となったお絹は、あの世で本人もびっくりの、実像とは程遠い存在になったのではないかと思います。
明治の仇花か
社会保障も無く、女性の職業も限られていた時代、貧しい庶民の女が身を立てるには、そのころ隆盛を迎えた花柳界に入るのも手段の一つだったようです。
売れっ子芸妓は今のアイドル並の人気を誇り、華やかな存在でした。
明治時代は男の時代。
男性に依存しながらも奔放に生きたお絹の悲劇的な末路が、世の関心を集め続けた理由なのかもしれません。
この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2017年6・7月号No.131 に収録した内容です。