愛に生き 恋に生き 美貌の貴人の生涯
どんな人にも人生の浮き沈みはあり、誰もが多少の山あり谷ありの一生を送ります。
個々には喜びや様々な試練はあれど、戦乱に遭わず難民にもならずに過ごせる社会は、世界的規模で考えたら、それだけで幸せなのかもしれません。
今から一千百年余も大昔のこと、たいへんドラマチックな生涯を送った女性がいました。
皇后となり天皇の母となる栄耀栄華を極めた後、晩年に起こしたスキャンダルのために后の地位を剥奪され、失意のまま世を去った藤原高子がその人です。
権門に生まれた宿命―藤原高子(たかいこ)
高子(二条の后)は西暦842年に生まれ、910年に68歳で亡くなっていますので当時としては長寿なのでしょうか。
藤原氏の歴史の中で1,2と言われる辣腕の政治家、藤原良房を伯父に、その後継者藤原基経は実兄にあたります。
天皇家の姻戚となり、天皇の祖父や伯父となることで権力を握る摂関政治。
良房は古来からの名族や皇族出身の有力者、同族の藤原氏をえげつないまでの権謀術数で次々に排除し、藤原北家隆盛の礎を築きました。
美しく生まれついた高子はその駒として重要な役目を担い、見事に応えたのでした。
当代随一のモテ男との恋
高子の名が知られているのは、伊勢物語の一編「芥川」のヒロインとしてでしょうか。
在原業平(ありわらのなりひら)は実在の人物で、多くの女性との恋の顛末を和歌で彩った「伊勢物語」の美男の主人公。
9歳下の清和天皇の妃にと、大切に傅かれていた高子が18歳のころ、業平と密かに恋愛し、駆け落ちを敢行。
業平に背負られて芥川まで逃げますが、すぐに連れ戻されてしまいます。
真偽はさておき、このエピソードで高子は情熱的な女性という印象を世間に残しました。
天皇の生母の権勢、そして失脚
太政大臣藤原良房を後ろ盾に25歳で清和天皇の後宮に入り、運良く第一皇子を出産。
この皇子が9歳で即位し、陽成天皇となりますが、17歳で摂政基経に退位させられます。
日頃身分にそぐわない乱暴狼藉があり、宮中で起きた殺人事件に関与したと疑われたことが理由ですが、実は皇太后高子と基経との熾烈な権力争いの結果とされます。
以降皇位は傍流に移り、高子の夫や子の側に戻ることはありませんでした。
不名誉な処罰を受けたままの死去
世は移り高子54歳の時、あろうことか、高子が建立した東光寺の僧との密通を疑われ、皇太后の尊称を剥奪されました。
権力から離れて12年。
醜聞が事実だとしても、敗者となった貴人へのあまりな仕打ちではないでしょうか。
すでに基経は亡く、時の天皇による高子一派復権を阻むとどめの一撃だった説があります。
名誉回復がされたのは死後33年目でした。
皇妃の多くが穏やかな一生を送った中で、高子は自分の意思を強く持った女性だったのかもしれませんね。
この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2016年2・3月号No.119 に収録した内容です。