詩人西脇順三郎とふるさと小千谷
詩など、生活に直接役立たないものには興味ナシ!そんなものでお腹はふくれない、実学を学べと思う方。
実にもっともです。
眼の前に、鼻眼鏡のインテリ貴公子然とした詩人がキザったらしく田舎の町を散歩しているのに出くわしたら、虫の居所が悪ければ石の一つもぶつけたい衝動に駆られる人も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
小千谷から東京へ遊学、そしてロンドンへ
西脇順三郎は明治27年、小千谷町の町長を務めた銀行家の次男に生まれました。
生家は縮商で財を成した豪商西脇家の分家。
市の中央部の一角に、漆喰の蔵に黒の板塀を長く巡らせた美しい佇まいのお屋敷が本家です。
小千谷中学から東京の慶應義塾大学へ進み、少年のころからの憧れ、イギリスに留学。
オックスフォード大学で古代中世英語文学を3年間学びました。
その間、画家のマージョリーと結婚し、32歳で帰国後、すぐ慶應大学教授となります。
西脇順三郎の詩
まさかり
詩集「宝石の眠り」より
夏の正午
キハダの大木の下を通つて
左へ曲がつて
マツバボタンの咲く石垣について
寺の前を過ぎて
小さな坂を右へ下りて行つた
苦しむ人々の村を通り
一軒の家から
ディラン・トマスに似ている
若い男が出て来た
私の前を歩いて行つた
ランニングを着て下駄をはいて
右へ横切つた
近所の知り合いの家に
立ち寄つた
「ここの衆
まさかりを貸してくんねえか」
永遠
男がまさかりを借りるだけなのに、強い印象が残りますね。
ふるさとへの愛憎と回帰―愛してやまなかった地
彼は若いころ小千谷が大嫌いだったそうです。
旧弊な土地で、外人妻を伴えば後ろに子供が付いて歩くような後進性が嫌だったのでしょうか。
後年冴子夫人と再婚し、戦争で疎開後は度々帰省しています。
ノーベル文学賞候補に何度も上がり、英文学者・詩人・画家として功成り名遂げた晩年、故郷への愛着を吐露し、終焉の地にとの希望を持っていたそうです。
昭和57年、子息の英国転勤のため小千谷総合病院に入院。
山本山と信濃川が見える病室で手厚い看護の中、入院27日目にして88歳で死去。
小千谷市立図書館3階の「西脇順三郎記念室」に当時の新聞記事、寄贈した洋書1200冊、絵画、愛用品、マージョリ―の描いた絵などが展示されています。
順三郎の生家跡を近くの方にお聞きしたところ、親切にも案内していただきました。
本家に近い茶郷川のほとり、税金の物納のため広い更地になったが、昔は家や蔵などが立ち並んでいたとのこと。
大詩人への誇りを感じました。
詩歌などは実生活には無力でも、心の栄養として必要かもしれませんね。
この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2016年5月号No.121 に収録した内容です。