鳥尾(とりお)子爵(ししゃく)夫人(ふじん)の許されざる恋
敗戦後の昭和20年~30年代、未だ戦争の記憶が生々しく残り、世相も不安定で大半の人々の暮らしも貧しかったころ、進駐軍の高官や政財界の大物との華やかな恋愛で世間を騒がせ、政治問題にもなった美貌の女性がいました。
鳥尾鶴代(改名後多江)は1912年(明治45年)東京市の裕福な家庭に生まれ、子爵家の跡継ぎとの結婚により華族になります。1985年刊行した自伝「私の足音が聞こえるーマダム鳥尾の回想」を読むと、強い上昇志向と自己肯定、独立心が感じられます。
美貌と行動力を武器に大胆に意思を貫く生き方が、まだ封建的な気風の残る世相の中で、新しい価値観に触れた女性には共感する面があったかもしれません。
ケーディス大佐との恋
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、1945年8月の敗戦後、連合国の占領政策を実施した最高機関であり、ケーディス大佐は弁護士出身の辣腕の高官でした。
1946年の出会いから1948年ケーディスの帰国まで不倫の恋愛は続きますが、この関係は一方が権力者であったため、熾烈な政争に利用されました。
内閣が倒れるほどの大疑獄事件に関わった疑惑で失脚し、帰国する彼との別れは、ジュリエットの悲劇のようです。
GHQのケーディスの事績に、現在の日本国憲法の草案を纏めたことがあります。
新憲法下での天皇制について『皇室制度存続に私の意見が大きく貢献した』と鳥尾夫人は主張しています。
こんな大きな問題に、私的関係の愛人の影響などあっただろうかと思いますが、真偽はいかがなものでしょうか。
第二の恋
ケーディスとの世紀の大恋愛の2年後、またもや物議を醸したのが、3歳年下の名門出身青年実業家との恋でした。
鳥尾夫人は前年夫を亡くしていましたが、男性の方には家庭があったようです。
相手はやがて衆議院議員に転じて政界で活躍しますが、18年後に亡くなるまで愛人関係は続きました。
生きた 愛した 戦った
当時、皇族・華族しか入学できない学習院のわずかな平民枠を受験で突破。
入学したものの子供心に感じた身分上の差別は結婚により解消しましたが、皇室への憧れと忠誠心は止むことなく、子息が今上陛下のご学友に選ばれた際は親戚一同、感涙に咽んだほど。
権力者に近づく嗅覚に長け、上だけを見る習性。
このように書くと、いかにも好感など持ちようのない俗な人柄を思い浮かべますが、実際の鳥尾夫人はバイタリティに溢れ、純粋で、魅力があった人のような気がします。
最晩年は子息に先立たれた翌年、79歳で亡くなりました。
アパートで独り暮らしだったと伝わります。
スタンダールの「生きた 書いた 愛した」をもじるのは不謹慎でしょうか。
この記事は当社瓦版 ほっとぽっと2018年4・5月号No.137 に収録した内容です。